3.7 モバイルコンピューティングとエージェント拡張現実感
Keywords
Software/mobile agents, mobile computing, agent augmented reality
3.7.1 はじめに
人々が計算環境を携帯することが可能になり、物理環境と計算環境が統合される機会とその必要性が高まっている。そこで、重要になってくるのが、環境を個人に適合させるための個人化 (あるいは個人適応化、本稿では個人化で統一する) 技術である。ソフトウェアエージェント技術は、状況を認識し、ユーザーの特性を学習し、その意図を伝達するシステムを構築するためのヒントを与えてくれる。一方、モバイルエージェントはネットワーク環境を個人化する有力な手段である。
筆者は、モバイルコンピューティングやネットワーク技術とソフトウェア/モバイルエージェント技術を用いて、実世界と情報世界を密に統合し、人間の日常生活を支援する枠組みを研究している。その枠組みをエージェント拡張現実感 (agent augmented reality) と呼んでいる[8]。それは、エージェントの自律性や能動性を、実世界の認識や状況依存の情報処理に導入して、ユーザーの状況に依存した高度な情報サービスを提供しようという試みである。
そもそも拡張現実感 (augmented reality) とは、仮想現実感 (virtual reality) から派生した比較的新しい研究領域で、実世界の映像に仮想的な物体の映像を重ね合わせるという発想に由来している。ちなみに、同様のコンセプトを複合現実感 (mixed reality) と呼ぶ人も一部にいる。拡張現実感の研究は、透過型ディスプレイを用いて実世界の対象にコンピュータによる合成画像を重ね合わせることから始まっている[11]。
拡張現実感のアイディアは、より一般的な情報の重ね合わせ、あるいは、情報提示の同期による相互補完という方向に発展してきている。たとえば、カーナビゲーションのような形態である。
カーナビゲーションシステムは、実世界における現在位置と地図 (情報世界) 上の現在位置の間に常に関連を持たせ、現在位置とユーザーの目的に関連のある情報を提示することができる。このようなシステムは、実世界を情報的に拡張しているという意味で一種の拡張現実感と言える。
本稿では、モバイルコンピューティングにおけるエージェント技術の応用に関して、モバイルエージェントや拡張現実感の話題を絡めて解説する。
3.7.2 モバイルコンピューティングとエージェント
モバイルコンピューティング (mobile computing) は、携帯型コンピュータや無線ネットワークを含む分散コンピューティング環境を目指すアプローチである。それには、携帯型コンピュータや無線ネットワークに適したOSやネットワークプロトコル[12]の研究が含まれている。ここでは、モバイルコンピューティングのアプリケーションに焦点を当てて説明する。
ここで考えているモバイルコンピューティングのアプリケーションは、携帯型のシステムが実世界の状況認識を行ない、さらに無線ネットワークを通じて関連情報にアクセスするという形態が考えられる。Sony CSLのウォークナビ[15]はそのようなシステムの一例であり、携帯型のコンピュータがGPSや赤外線によりユーザーのいる環境を知り、移動体通信を使ってインターネット (主にWorld Wide Web) にアクセスし、ユーザーの位置に合った情報案内を行なうことができる。
この場合、携帯型システムに実装されたエージェントは、ユーザーとアプリケーションの橋渡しとして機能する。つまり、エージェントはユーザーの状況を認識し、その意図を推論し、要求を満たすためのアプリケーションを起動する。モバイルコンピューティングであることの利点は、ユーザーの実世界における文脈にエージェントを適応させることができることと、ユーザーを常に特定できるので個人情報を使ったカスタマイズ、つまり個人化ができることである。
ユーザーとその周囲の状況に常に注意を働かせているエージェントは、それ自身がネットワークを移動する必要はないし、分散的である必要もないので、モバイルエージェントではなく、AI技術を用いたいわゆるソフトウェアエージェント[3, 14]として実現すべきだろう。ただし、分散されたアプリケーションとの連携をとるために、エージェント間コミュニケーションの機能は不可欠である。さらに、ヒューマンエージェントインタラクションのためのさまざまな工夫が必要である。
また、モバイルエージェントは分散された任意の情報環境を個人化する手段として用いることができる。つまり、個人情報を持ってさまざまな情報サーバーに移動し、サーバーから受けるすべてのサービスを特定の個人に合わせて加工してから、ユーザーに提供することができる。特に、情報環境と物理環境が連動している場合 (たとえば、照明や空調の制御など) 、このような機能はエージェントを派遣することでほぼ自動的に実現できるので、その利点は大きいと言える。
ここまでの話は、特定の個人のプロファイル情報と文脈情報を持ったエージェントが情報空間を移動して、その個人に合ったサービスを提供するというものであったが、コミュニティなど複数の人間の活動を支援するように拡張することができる。
ネットワーク社会におけるコミュニティ活動の支援は、今後さらに重要性が高まると思われる研究テーマである[4]。オンラインで行なわれるコミュニティ活動と実世界で行なわれる出会いや、コミュニケーションを密に連結させるためにも、エージェント拡張現実感は大いに貢献できると思われる。
この場合、複数のユーザーのそれぞれのモバイルエージェントが出会い、情報を交換し、それぞれのユーザーに有用な情報を伝達できるような仕組みが必要である。
このようなマルチモバイルエージェントシステムは、従来から研究が行なわれてきたマルチエージェントシステムとモバイルエージェントの特徴を併せ持つものである。すなわち、エージェントは移動能力を持つだけでなく、他のユーザーのエージェントとのコミュニケーション能力も持つ。この場合のコミュニケーションは一般のマルチエージェントシステムと同様に、ACL (Agent Communication Language)[2]を用いて行なう。
3.7.3 エージェント拡張現実感
エージェント拡張現実感は、実世界を認識し、情報世界を移動するエージェントを基盤とした新しいネットワークコンピューティング環境を目指すアプローチである。
たとえば、電子メールの管理を行なったり、インターネット上の情報検索を行なうエージェントシステムは、すでにいくつか実現されている[7, 1]。しかし、それらの研究では、ユーザーの目的や意図を伝達する手法、つまりヒューマン・エージェント・インタラクションに関する手法には、まだ十分に注意が払われていないと思われる。筆者が以前に関与していた擬人化エージェントの研究では、人間同士が対面式のコミュニケーションにおいて用いるような言語的モダリティと非言語的モダリティを統合して、人間とエージェントとが円滑なコミュニケーションを行なえるようにする試みを行なっていた[9]。しかし、擬人化のための技術が不十分なことや、考慮すべき心理学的・社会学的要因が非常に多いために、まだまだ効率的な意図の伝達を扱うには至っていない状態である。
エージェントシステムに拡張現実感のアイディアとその技術を導入することによって、実世界状況を認識しユーザーの意図を暗黙的に理解して、情報世界を動き回って適切な情報を収集・加工するシステム、あるいは実世界状況に依存したタスクをユーザーに代わって遂行するシステムが考えられる。
このエージェントは、実世界認識という新たなモダリティを用いることによって、ユーザーの意図をより容易に認識することができるため、人間とのインタラクションを大きく改善できる可能性がある。
つまり、人間とエージェントが環境や状況を共有していることを暗黙的に理解できる場合には、言葉のようなあいまいな情報伝達手段が有効になると思われる。次に紹介する状況依存エージェントは、人間のいる状況、その人間の習慣・興味などを知った上で、言葉を理解する。人間はエージェントがそういったことを知ってくれていることを前提として、安心して言葉を使うだろう。たとえば、このエージェントは、本や本棚といった対象物を認識するとそれに対して人間が聞いてくると思われる質問を想定して、そのための文脈を用意してから、人間の言葉を認識する。もし本を見ながら「この本の著者はどんな人?」などと聞いた場合には、「この本とはどの本のことですか?」などという余計な事を聞かずに適切に答えてくれるだろう。また、その人間の好みを知っていれば、その人に合った本を本棚が紹介してくれる、ということも実現できる。
3.7.3.1 状況依存エージェント
エージェント拡張現実感は、人間が携帯型あるいは装着型のコンピュータを常に自分のそばに置いていることを前提としている。また、そのようなコンピュータには実環境の状況を認識するためのさまざまなセンサーが接続されている。
センサーからの情報に基づいてユーザーの状況認識を行なう携帯型/装着型コンピュータはカスタマーホストと呼ばれ、ユーザーの個人情報を管理して、その行動を観察するパーソナルプレースエージェントと呼ばれるエージェントが動作している。このプレースエージェントとは、General Magic社の開発したTelescript[3]のプレースにエージェント機能を持たせたものである。したがって、プレースエージェントはモバイルエージェントと異なり移動はしない。パーソナルプレースエージェントは特別なプレースエージェントで、特に個人情報の利用とプライバシー保護の機能を持っている。
このカスタマーホストにエージェンシーホストと呼ばれるサーバーからモバイルエージェントの利用環境がダウンロードされる。ダウンロードはユーザーが意識することなく自動的に行なわれる。この環境にはサービスホストと呼ばれるリモートサーバーの情報やサービスホストにいる(パブリック)プレースエージェントとのプロトコル情報などが含まれる。ユーザーが要求をパーソナルプレースエージェントに伝えると、自動的にモバイルエージェントが生成され、適切なサービスホストに転送される。モバイルエージェントは必要に応じて、複数のサービスホスト間を移動する。モバイルエージェントはどこにいても、それを生成したパーソナルプレースエージェントと通信ができるように設計されている。それによって、パーソナルプレースエージェントは、ユーザーの現在位置などの情報をモバイルエージェントに伝達することができる。モバイルエージェントは、移動先でユーザーのもともとの要求に合うように情報を加工するだけでなく、パーソナルプレースエージェントから伝達されたユーザーの状況に基づいて情報を再加工したり、新たなサービスホストに移動したりする。
もし無線ネットワークが作動しなくなり、モバイルエージェントとパーソナルプレースエージェントとの連結が切れてしまった場合は、作業の終了したモバイルエージェントは先ほどのエージェンシーホストに移動する。そして、ネットワークが回復するとカスタマーホストはエージェンシーホストに自動的に接続して、エージェントが呼び戻される。パーソナルプレースエージェントはユーザーの状況を観察し、適切なタイミングで、帰還したモバイルエージェントから得られた情報を提示する。
図3.7-1は、ここで用いているモバイルエージェントの実行環境を示している。実装には、APSL (Agent Programming System and Language)[5]というJavaを拡張した言語を用いている。
図3.7-1 APSL実行環境
ここでモバイルエージェントを使う理由は、そもそも無線ネットワークによる通信が不安定なため、常にネットワークに接続していられないことが挙げられる。そこで、通信状態をユーザーが意識していなくてもよいように工夫する。そのため、従来、サーバーとクライアントのトランザクション処理を行なわなければならない部分を、内部状態と処理手続きを内包したエージェントを移動させて行なわせる。しかし、ユーザーはそのことを意識する必要は無く、プレースエージェントはネットワークの接続状態を確認し、タイミングをはかってユーザーの要求をモバイルエージェントに託して転送する。あるエージェントが移動した後にユーザーの要求が変更されたり修正されたりした場合は、差分が少なければエージェント間通信によって、大きければその差分を持ったエージェントが以前に転送されたエージェントを追跡して情報を補足する。
また、モバイルエージェントを設計の基本に据えることによって、アプリケーションのモデルが簡単になり、コンテンツを拡張しやすくなると思われる。それは、情報を提供する側が常にユーザーを分類してコンテンツを区別するのではなく、ユーザーから派遣されたエージェントとコンテンツ提供側のエージェントのコミュニケーションによって動的に定まるように設計できるため、人間の手間を減らすことができるからである。
3.7.3.2 課題
ここでのエージェントの抱える課題はおおむね次のようになるだろう。
1.情報世界と実世界の連結
2.人間とのインタラクション
3.他のエージェントとのコミュニケーション
4.個人化のための学習
5.個人化された情報処理
6.ユーザーのプライバシーの保護
1に関しては、バーコードなどのIDやGPSによる位置などを使って実世界の対象や状況を特定し、それに何らかの形で情報世界へのアクセスポイントを関連づけることで一応対処できる。ただし、IDと情報内容が適切に対応づけられなければ意味が無いので、IDが無数に存在するようなときに破綻しないように、メンテナンスを効率良く行なう工夫が必要である。
2に関しては、実世界認識が手がかりになって、人間の意図をより容易に認識できる可能性がある。ただし、状況が特定できたときに、どのようなインタラクションを行なうべきかは、タスクの性質や4の個人化も同時に考慮して設計すべきだろう。
3に関しては、ユーザーの個人情報がエージェント間のコミュニケーションに有効に活かされる工夫や、6のプライバシーの保護を十分に考慮する必要がある。
4は個人情報をどのように取得するかということである。これに関しては、ユーザーにプロファイルデータやスケジュールデータを事前に登録してもらうのがてっとりばやいが、それでは役に立たないこともある。ユーザーの繰り返される行動から何かを抽出したり、過去のインタラクションの履歴をうまく利用することも考えられる。強化学習や記憶に基づく学習などのメカニズムが利用できるかも知れないが、これは今後の課題である。
5は4で獲得した個人情報をどのように利用するかということである。情報検索や情報フィルタリングへの応用が最も有望であり、研究事例もいくつかある。ただし、過去の研究は主に個人のプロファイルデータが事前に与えられた場合を扱っており、個人情報の獲得と合わせて議論すべきであろう。
最後の6は、これらの個人情報をエージェントが扱うことにより不都合が生じないための工夫の問題である。現在は、公開鍵暗号システムのような暗号化の技術が盛んに研究されているが、エージェントのような能動的なシステムを暗号や認証によって保護するだけでは不十分かも知れない。これらは、エージェントが日常的になればどんどん深刻化する問題であるから、できるだけ早急に柔軟で安全なアーキテクチャを考えるべきである。
3.7.4 エージェント拡張現実感の実例
以下で、筆者らの試作した、エージェント拡張現実感に基づくシステムをいくつか紹介する。最初の二つは個人の行動を支援するシステムで、後の二つはマルチモバイルエージェントに基づくコミュニティ活動の支援システムである。いずれも、試作段階であるが、近い将来に十分に利用可能になるであろうアイディアを多く含んでいる。
3.7.4.1 ShopNavi
たとえば、今日の料理の食材をスーパーマーケットに行って買う場合、物理的に見て選べるのだから情報は特に必要ない、ということはないだろう。一見同じようでも、産地が違ったり、味が違ったり、製造日が違うということがあるからである。もし、製造元からの情報があれば、より自分に合ったものを選択できるだろう。ただ、そういう情報はモノにうまく結びついていないと役に立たない。つまり、情報と現実のモノとの結びつきが肝心なのである。
また、買物というのは個人的な情報に強く依存している。その場合の個人情報には、何を食べたいかとか、いくらまでお金を使うか、などが含まれている。そのような個人情報と商品、店、製造元などの分散された情報を結び付けるために、エージェントの技術が役に立つ。状況依存エージェントは人間が今何を見ているか、何に興味があるのか、などを認識して情報を検索することができる。
エージェント拡張現実感に基づくこのシステムをShopNaviと呼ぶ。ショップナビは、エージェントがユーザーの見ている方向や対象を認識して、店内と商品の情報案内を、音声、テキストとグラフィックスを用いて行なうシステムである。図3.7-2はこのシステムを使って、ある商品(牛肉)とインタラクションしようとしている様子を、図3.7-3はその商品から得られた調理例(すきやき)の情報が携帯型ディスプレイ上に表示された状態を示している。
図3.7-2 ShopNaviの使用風景
図3.7-3 ShopNaviのディスプレイ
このシステムは、個人情報と店の情報と商品の情報を組み合わせてユーザーをサポートする。予算は個人情報であり、この上限をエージェントが常に意識してくれている。ちょっと高い肉を買おうとして予算をオーバーしそうになると注意してくれる。それでも買いたい場合は、エージェントに言って、個人情報を更新することができる。また、すきやきを作ろうと思ったら、家にはどんな材料が残っているかを調べてくれ、何を買えばいいのかを買物に行く前に教えてくれるだろう。また、店と情報をやりとりして、これこれのものが安いですよ、と言ってくれる。また、商品に付けられたIDから、エージェントがその商品を認識するとその店の管理する(パブリックな)データベース、あるいは、ネットワークを通して製造元のデータベースなどの情報世界にアクセスして情報を取ってくることができる。いずれ物理的なお金のやりとりも無くなるだろう。近い将来に通常の貨幣に取って代わると言われている、電子マネーあるいはデジタルキャッシュによって、知らない間に清算されているということも考えられる。
ShopNaviは、場所や見ている方向を認識するために3次元位置センサーを、また、対象を認識するためにRFタグとその認識装置を利用している。RF (Radio Frequency) タグは電磁誘導方式のタグで、バーコードなどと違ってIDが外から見えていなくても構わない。タグ用のセンサーが近づくだけでIDを読みとることができる。将来的には、このようなタグシステムは、一般に普及して、バーコードに取って代わるだろうと言われている。それによって、商品をカートにいれてゲートをくぐると、値段が集計されて電子マネーで自動的に支払われる、ということが可能になるだろう。このような、機械が容易に読み取れる方式のIDをモノに貼り付けるやり方は、実世界と情報世界をつなぐために十分に利用できる。
ShopNaviには複数のセンサーが使用されているため、携帯する部分とコンピュータ本体をつなぐケーブルがいくつか存在するのだが、将来的には無線を使うことになるだろう。さらに、処理のプログラムのほとんどの部分は、携帯システムの内部で実行されていなくても構わなくなるだろう。携帯システムが行なうのは、たとえば、ユーザーの声をデジタル信号に変換し、声の信号やタグの信号などのセンサー情報と個人情報をモバイルエージェントに託してネットワークに流し、ネットワークから得られた情報を単純なカスタマイズを行なって提示する、などの比較的負荷の軽い処理だけになると思われる。人間は、その程度のことができる小型で軽量のシステムを持ち歩けばよいようになるだろう。店内にいるときは店側のコンピュータおよびそれに接続されたコンピュータで大部分の情報処理をしてもらって、携帯型コンピュータはただその結果をユーザーに示せばよい、というような仕組みになると思われる。
3.7.4.2 HyperCampus
HyperCampusは、GPS (Global Positioning System)や赤外線によるビーコンの利用により、ユーザーの現在位置を認識し、さらに時間やそのユーザー個人に依存した情報を提供し、大学の活動や環境に関する興味と理解を深めようとするものである。
関連する研究に前述のSony CSLのウォークナビ[15]やGeorgia TechのCyberGuide[6]がある。しかし、いずれのシステムにも個人化という視点が欠けている。HyperCampusでは、情報システムが、物理的環境と連動していることだけでなく、ユーザー個人にも依存するように設計されている。
図3.7-4はHyperCampusの使用風景である。
図3.7-4 HyperCampusの使用風景
HyperCampusのコンテンツは以下のものから成る。
1.建物情報。たとえば、外観イメージ、フロアープラン、建築的特徴など。
2.室内情報。たとえば、講義案内、活動風景、イベントスケジュール、研究室紹介など。
3.施設情報。たとえば、食堂、生協、図書館、体育館などの施設に依存した情報。
4.電子掲示板。キャンパス内の任意の場所に、特定のユーザーやグループ、そして有効期限を指定したメッセージを電子的に貼り付けることができる。指定されたユーザーがその場所に期限内に訪れると、エージェント経由で自動的にメッセージが伝達される仕組みになっているので、その状況でなければ意味をうまく伝えられないようなメッセージを送るのに有効である。
5.ユーザーの行動履歴。訪問した場所とアクセスした情報(の識別子)を時間順に並べたもの。
6.その他関連情報。教師のプロフィールや大学行事など。これらは状況に関わらず自由に呼び出せる。
HyperCampusでは、ユーザーの現在位置を示すために、上が北を向いたキャンパス地図を表示し、GPSから得られた位置情報を基に、地図上の位置を計算して表示する(図3.7-5)。また、エージェントは、あらかじめ取得した地図上の領域とネットワーク上の情報との対応表に基づいて関連情報にアクセスし、現在位置と連動して自動的に表示内容を切り替えることができる(図3.7-6)。
図3.7-5 地図と現在位置
図3.7-6 位置に関連した情報の例
さらに、大学内のいくつかの部屋の入口に赤外線リモコンを取り付けておき、ドアの開閉に応じて、リモコンのスイッチがオンオフされるようにしておく。赤外線信号は部屋のIDを表しており、GPSの場合と同様に、エージェントは部屋IDと関連付けられた情報にアクセスし、IDが受信されると自動的に情報を表示する仕組みになっている。
エージェントは、現在位置を認識すると同時に現在時刻を参照するようになっており、位置が同じでも時間によって異なる情報内容を表示するようにしている。これは、たとえば、同じ教室が時間によって異なる目的(つまり、異なる講義)のために使われるためである。もちろん、その場所の異なる時間帯に関する情報もユーザーの要求に従って提供することができる。
また、HyperCampusに備わったモバイルエージェントは、キャンパス内のさまざまな場所に関連したサービスホストに、ユーザーの個人情報と要求を持って移動し、ユーザーがその場所に到着すると、ユーザーの要求に基づいて情報を処理した結果を自動的に返し、ユーザーのその場所における活動を支援することができる。図3.7-7はHyperCampusのシステム構成を表している。
実世界の場所とサービスホストのネットワークアドレスとの関係はHyperCampus用のエージェンシーホストを通じて知ることができ、簡単な操作で、それぞれのサービスホストで処理すべきユーザーの要求を持ったエージェントを生成・派遣できる。
3.7.4.3 HyperDialog
HyperDialogは、ユーザー間の対面コミュニケーションを支援するシステムである。装着型コンピュータに実装されたエージェントは、ユーザーの室内における位置と方向を認識して、個人化されたモバイルエージェントに伝達する。複数のモバイルエージェントは、それぞれのユーザー間の物理的状況を伝達し合うことで、会話の準備としての動機付けを与える。
図3.7-8はHyperDialogを使用するユーザーの様子を示している。
図3.7-7 HyperCampusシステム構成
HyperDialogによって、ユーザーは会話するきっかけを得るだけでなく、そのときに会った人の名前や電子メールアドレスなどの情報を電子的に得ることができ、記憶を想起したり、気の合った相手に再びコンタクトすることを容易にすることができる。
図3.7-8 HyperDialogを使用するユーザー
(1) HyperDialogの実行例
HyperDialogを構成するエージェントは、たとえば以下のような活動を行なう。
1.パーソナルプレースエージェントはユーザーから個人情報を受け付け、モバイルエージェントを生成して、情報を与える。
2.個人情報を持ったモバイルエージェントがコミュニケーションサーバーと呼ばれるサービスホストに移動する。サーバーには (パブリック) プレースエージェントが常駐していて、移動してきたモバイルエージェントとコンタクトする。
3.サーバーに派遣されたモバイルエージェントは、サーバーに常駐する (パブリック) プレースエージェントに問い合わせて、他のユーザーの情報を獲得して自分のユーザーのパーソナルプレースエージェントに伝達する。
4.ユーザーのパーソナルプレースエージェントは、複数のユーザーの集まる会場内でユーザーの物理的状況を認識して、サーバーに移動したモバイルエージェントにその情報を伝達する。
5.各ユーザーの状況を知る複数のモバイルエージェントが (パブリック) プレースエージェントを仲介に情報を交換して、各ユーザーの現在状況に関連した情報を、それぞれのユーザーのパーソナルプレースエージェントに伝達する。
6.ユーザーが他の参加者について詳しく知りたいときは、パーソナルプレースエージェントに要求する。パーソナルプレースエージェントはその要求をモバイルエージェントに伝達し、さらに、(パブリック) プレースエージェントに要求を提示する。(パブリック) プレースエージェントは、相手のモバイルエージェントを通じて、その相手のパーソナルプレースエージェントに要求を伝達する。
7.モバイルエージェントから要求を受けたパーソナルプレースエージェントはユーザーに確認を取ろうとする。
8.ユーザーの承認を受けると、パーソナルプレースエージェントはモバイルエージェントに、そのことを伝え、そのモバイルエージェントは、サーバーの(パブリック)プレースエージェントに要求された個人情報を伝達する。(パブリック) プレースエージェントは要求元のモバイルエージェントに受けとった個人情報を伝達する。その情報は、パーソナルプレースエージェントを通じて、ユーザーに伝達される。
9.もし、ユーザーの承諾が得られなかった場合は、相手のパーソナルプレースエージェントはその旨をモバイルエージェントに伝え、さらに、それを (パブリック) プレースエージェントに伝える。さらに要求元のモバイルエージェントに伝えられ、パーソナルプレースエージェント経由で要求を出したユーザーに伝えられる。
10.すべての作業が終了すると、サーバーに派遣されたモバイルエージェントは、ユーザーの行動履歴などのログ情報をパーソナルプレースエージェントに伝達してから、自動的に消滅する。
図3.7-9はHyperDialogのシステム構成を表している。
図3.7-9 HyperDialogの構成
3.7.4.4 CommuniCarte
CommuniCarteは、実世界の部屋を情報的に拡張した新しい共同作業空間を提供する。これは、大型スクリーンに共有情報を表示して、参加者がそれぞれの提供する情報カード(カード形式の文書またはスライド)を個人用の(装着型モバイル)コンピュータを用いて操作できるようにしたものである。
図3.7-10はCommuniCarteの使用風景を示している。
図3.7-10 CommuniCarteの使用風景
スクリーンに表示された情報カードは、その提供者によって他の参加者の提供する情報カードと関連付けることができる。関連性は2つ以上の情報カードを連結するリンクによって表現され、結果は情報カードを節点とするネットワークとして表示される。このネットワークはWeb文書と互換性のあるハイパーテキストに加工され、共有サーバーに保存され、参加者が自由に利用できるだけでなく、後になって再び作業空間に呼び出して加工することができる。
画面に表示された情報カードの提供者が誰であるかを参加者が直感的に認識できるようにするために、実世界での人の位置に依存して、その人の提供した情報カードの表示位置や大きさが変化する仕組みを導入した。カードは人がスクリーンに近づくと自動的に大きくなり、それに伴って内容がより詳細になる。
また、提供された情報カードにはエージェントが付随しており、その情報の要約を動的に生成する。さらに、提供者以外の参加者にその情報カードのID (と表題)を送信する。そのIDは情報カードだけでなく提供者のプロフィールを呼び出すキーにもなる。これによって、参加者は情報を知るだけでなくお互いのことをよりよく知ることができるようになる。
このシステムの運営にはモデレーターとしての人間が必要であり、ミーティングの最初の情報カードを提供して参加者が提供すべき情報を選択するきっかけを与える。また、参加者に対して、提供された情報カードの差し替えを促したり、リンクの修正を要求したりできる。さらに、モデレーターは情報ネットワークの任意の個所にコメントを付けることができる。ミーティングが終了すると参加者はモデレーターに点数を付ける。その点数はそのモデレーターの評判に通じ、次回以降のミーティングに参加する場合の目安となる。
(1) CommuniCarteの特徴
CommuniCarteは以下のような特徴を持つシステムとして設計されている。
1.実世界に立脚した新しい情報共有空間
参加者は自由に自分の情報を登録でき、他の参加者がそれを参照できる。他の参加者に関する個人情報は、各参加者の装着型ディスプレイに表示される。
2.コミュニティの交流を支援するエージェント
ユーザーとともにいるエージェントは情報カードとその提供者の関係を記憶しており、ユーザーがカードを指定して、提供者の情報を要求すると、派遣されたユーザーのモバイルエージェントと提供者のモバイルエージェントがコミュニケートして情報を取得し、ユーザーに提示する。これによって、カードを通じてユーザー同士が知り合い、話をするきっかけを作ることができる。
3.情報の共同組織化
複数の参加者が情報を提供し合い、相談しながら情報間の関係をスクリーン上に定義していくことができる。情報間の関係には、直接の関係と間接の関係があり、直接の場合は普通のリンクとして、間接の場合は、途中にノードのあるリンクとして表現される。参加者は、間接リンクの途中のノードに自分の提供した情報を当てはめることができる。
(2) CommuniCarteの使用例
CommuniCarteの実行は以下のようになる。
1.モデレーターによって不特定多数の人に通知があり、ミーティングのテーマと会場が知らされる。
2.それを見た人は、参加を表明するために個人情報を持ったエージェントを指定されたサーバーに派遣する。
3.会場に人が集まり、情報を提供するとスクリーンに表示される。情報とその提供者は見えない線で結ばれており、人が動くとその情報の位置や内容 (の詳細度) が変化する。
4.ある参加者が提供した情報のIDと表題は、他の参加者のコンピュータに送信され、装着型ディスプレイに表示される。この情報は、メニューに加えられ、その情報を選択したり、その提供者の個人情報を呼び出すときに用いられる。
5.各参加者は自分の提供した情報と他の情報との関連付けを行なう。この作業は何度でもやり直すことができる。
6.このような共同作業によって情報が整理されていく。
7.ミーティングが終了すると、作業の結果はサーバーに保存され、自由に取り出すことができる。この情報は次のミーティングで再利用されたり、参加者によって個人的に利用される。
8.個人で利用する場合は、ハイパーテキストに変換してWebブラウザーを使って見ることができる。
3.7.5 おわりに
以上、モバイルエージェントの応用に関する新しい方向性として、拡張現実感との統合によるエージェント拡張現実感について述べた。情報世界が拡大して人間の手に負えなくなり、エージェントのような自律的な情報処理代行システムの必要性が高まってくることは疑いないことであるし、情報世界と現実世界との間に多様な接点が生まれてくることは明らかなので、今後さらにこのような方向の研究が大いに進むであろう。
携帯型コンピュータはますます小型化し、さらに何らかの状況認識機能を持つことになるだろう。また、日常的な電子機器に埋め込まれて見えなくなったコンピュータが通信機能やユーザー毎のカスタマイズ機能を持つようになると思われる。このとき、携帯型と環境埋め込み型のコンピュータたちがエージェントの仲立ちによって相互に密に通信し合い、人間の生活をその状況に応じて支援することになるだろう。
そして、個人とともにいる状況依存エージェントは人間の心理的・生理的側面にも注意を働かせるようになると思う。たとえば、将来、腕時計には血圧や脈拍を測る仕組みが内蔵され、靴には発汗量を検出する皮膚抵抗値の測定器、帽子には脳波の測定器などが付けられ、エージェントはそれらに基づき、ユーザーの心理状態を知ろうとするのである。たとえば、緊張しているとか、いらいらしているとか、落ち込んでいるとか、のような状態を感知すると、それを考慮して対応してくれるようになるだろう[10]。
また、エージェント拡張現実感は人同士の結び付きを支援することにも貢献するだろう。たとえば、パーティなどの参加者の中で興味の一致する人をエージェントが情報世界において探しだし、ユーザーに知らせるのである。これによって、初対面の相手とも比較的楽に会話をすることができるようになると思う。また、電話で話そうと思ったときに、事前にエージェントに相手の都合(手が塞がっているとか、別の相手と話をしている最中だとか)をプライバシーを侵害しない程度に調べさせ、問題がなければ電話する、ということも可能になるだろう。エージェントはユーザーのプライバシーを守りつつ、他のエージェントからの問い合わせに答えて、必要に応じてユーザーの現在の状態を伝達するようになると思われる。
このように情報世界と人間を密につなぐエージェントによって、人間には新たな創造性が生まれ、人間同士には時間や空間を越えた強い絆が生まれると筆者は考えている。そのための準備を今から少しづつでも始めていくべきだろう。
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