3.10 地球環境・人間社会共生基盤 Symbiotic Live Sphereの提案
― 2010年N子の一日 ―
3.10.1 生活シーンにおける情報基盤ニーズ調査
本年度は、通産省工業技術院電子技術総合研究所の協力のもと、生活シーンにおける人間中心型情報技術に対するニーズの調査研究を進めた。
調査研究は、若い世代のごく普通の市民が、ごく普通の日常生活の生活シーンの中で、漠然と感じている情報技術に対するニーズを、生活シーンの描写(エッセイ)と目に見えるイラストの形で具象化する。これにより、人間中心型情報技術に対する技術ニーズを分析すると共に、これに応える要素技術、基盤技術、社会基盤を明確にし、消費者・マーケットに受け入れられる「解」の例を考案することを目指す。
本調査で想定する「ごく普通の市民」は、以下に示す立場から人間中心型情報技術に接する人々である。
現在20〜30歳代の女性は、このような3つの立場・性格を同時に合せ持っている。従って、本調査では女子高校生、女子大生や若いOL、主婦を主な被験者とした。また、対比のために、同世代の男性についても調査した。(計、二百数十名)
被験者には「何年先に実現する技術」などの制約を与えずに自由な発想で「自分がお金を使ってでも享受したい・利用したい」と考えるモノ・サービスを、出来るだけ具体的にイメージして、どんな時にどんなモノ・サービスをどう使うかを、エッセイ風にまとめて貰った。このエッセイをもとに、ある女性の一日の生活シーンの描写を作成し、また、そのイメージをグラフィックデザイナーと相談しつつイラスト化した。
ニーズに対する情報技術の開発・商品化が完了すべき時期は、被験者には明示的には示さなかったが、結果的には5〜
10年程度で利用可能になると考えられるものが多くなった。
3.10.2 「目に見えない情報化」へのパラダイムシフト
3.10.2.1 被験者の世代のメンタリティ
被験者の回答を観察すると、次の3つの特徴が共通していることがわかった。
これらの特徴に共通するキーワードは「のび太君とドラえもん」であると言えよう。
「のび太君とドラえもん」は藤子不二雄の描くコミックのキャラクターである。ドラえもんは、のび太君の子孫にあたる少年が、未来から送り込んだネコ型・少年サイズのロボットである。ドラえもんの仕事(ミッション)は、必ずしも優等生ではないのび太君が幸せな人生を送って、幸せな子孫を残すことが出来るように、向上心は持ちながらもすぐに挫けてしまうのび太君をサポートし育てることである。そのために、ドラえもんは、のび太君が困った状態になると、必ず「未来の道具」を取り出して助ける。また同時に、道具に頼りすぎることなく、自らの力で事態を切り開くような教訓を与えることもある。時に失敗もするドラえもんは、のび太君と同じ視線でのび太君に接しているのである。
被験者達の世代が最初に接したハイテクのイメージは、ドラえもんに代表される。被験者の回答に現れているのはドラえもん的な技術に対するニーズなのである。被験者達は自分自身を「のび太君」のように感じているのかもしれない。
次に、このような被験者の回答に内在する、社会基盤へのニーズ、および、情報技術へのニーズを考察しよう。
3.10.2.2 社会基盤へのニーズ ― 地球環境・人間社会共生基盤 Symbiotic Live Sphere ―
社会的な視点から回答を分析すると、共通するアイデアとして「共生
(Symbiosis)」という概念が抽出できる。共生Symbiosisとは、生物学・生態学の概念で、異種の生物が行動的・生理的な結びつきをもち、一所に生活している状態をいう。人と人との関係では、自分一人が利益(利便)を独占するつもりはないが、他の人から傷つけられること(つまり、自分の価値観を否定されること等)には抵抗感がある。同時に、自分自身も人を傷つけたくもない(つまり、価値観の多様性を認める等)とも考えている。一方で、社会福祉やボランティア活動等で、社会参加の重要性を認識しつつも、自分自身が参加・関与することには、必ずしも積極的ではない。自分は少しの努力を払うだけで、積極的に参加・関与したのと同じ効果が簡便に得られることを希望している。このような考え方を普遍化すれば、人間社会の中における人と人の共生を、社会的な基盤として求めていることがわかる。
人と地球環境との関係では、人間の産業活動・社会活動による地球環境の破壊に対する関心は強い。しかし、生活ゴミや産業廃棄物・温暖化・オゾンホール・省資源と省エネルギーなどで、地球環境の重要性を認識しつつも、自分自身が資源・エネルギーの消費を抑えて生活の質を下げるなどの、地球環境を守る努力に参加・関与することには、必ずしも積極的ではない。自分は少しの努力を払うだけで、積極的に参加・関与したのと同じ効果が簡便に得られることを希望している。このような考え方を普遍化すれば、地球環境と人間社会の共生をも社会的な基盤として求めていることがわかる。
「地球環境・人間社会共生基盤」とは、地球環境および人間社会の構成員たる一人ひとりの人間が、情報技術などのハイテク技術のサポートを日常生活の中で目に見えない形で受けながら、主観的にはわずかの努力を払うだけで容易に人と人との円滑な関係を築き発展させ、同時に、地球環境を守りつつ高水準の市民生活をおくれるようにするための社会的な基盤である。このような社会基盤の上で提供されるライフスタイルとその活動範囲を「共生型生活圏
(Symbiotic Live Sphere)」と呼ぶことにする。
3.10.2.3 情報基盤へのニーズ
共生型生活圏
(Symbiotic Live Sphere)を実現するためには、どのような情報技術が求められるかを考察しよう。情報処理のシステム構成の歴史を振り返ると、
1960年代以降の大型汎用コンピュータによる集中型情報システム、1980年代のコンピュータのダウンサイジングに伴うパソコンの高性能化と分散型情報システム、1990年代のインターネットによる情報システムの再統合つまり分散統合型情報システムへと発展してきた。1990年代後半からのモバイル型の情報システムは、2000年以降に本格化して、ウエアラブル型情報システム(wearable PC)と環境への埋め込み型情報システム(embedded, ubiquitous computing)に発展するであろう。では、その先に来る情報処理のシステム構成はどのようなものになるのだろうか?20
世紀最後の20年の情報処理システム(そして情報通信システム)のキーワードは「いつでも、どこでも、だれとでも(whenever, wherever and with whomever)」であった。時間と場所に制約されずに、情報処理・情報提供・情報通信等のサービスを享受できるようにすることが、基本的目標であった。また、同時に進行したマルチメディア情報処理技術の発展によって、「どんな機器でも、どんなメディアでも」情報処理・情報提供・情報通信等のサービスを享受できるようにすることも可能になりつつある。人の活動を目に見える形で情報化することにより、人そのものの情報化を図ることが基本的なパラダイムであったといえる。現在では、モバイル技術とマルチメディア情報処理技術により、時間や場所、メディアの制約をほとんど受けずに、情報処理・情報提供・情報通信等のサービスを享受できるようになった。しかしそのためには、利用者は携帯端末を取り出し、どのような情報処理をし、どのような情報を探し、誰と連絡をするのかを明示的に教える必要がある。マルチメディア化されたユーザインタフェース
(Graphical User Interface)上のメタファーを通して簡便に命令が出来るにしても、利用者は、日常生活を一時中断し、情報処理の中身を考え、膨大なデータベースの規模とデータの所在を考え、世界的な規模に広がったネットワークを考えながら、サービスを享受する必要があるのである。情報機器の普及と情報リテラシー教育は重要な課題である。しかし、上述のパラダイムのもとでは、情報機器の有無や情報リテラシーの差がそのまま、情報化社会での生活の強者・弱者の差を生み出すことになる。「情報弱者」が新たに社会的弱者に加わる可能性があるのである。
被験者の回答の分析で示したように(
3.10.2.1節、3.10.2.2節参照)、ごく普通の市民は、地球環境や社会参加の重要性を認識しつつも、自分自身が生活水準を落としたり、生活範囲を狭めることには拒否感がある。同時に、情報機器を駆使して資源・エネルギーの消費を抑えた高い生活水準を保ち続けること、広範な人間関係を保つことにも、必ずしも積極的ではない。自分は日常生活の範囲内で少しの努力を払うだけで、結果として積極的に参加・関与したのと同じ効果が簡便に得られることを希望している。では、
21世紀最初の20年の基本的なパラダイムは何か?「人間の生活圏そのものを情報化して、人の活動を、日常生活の延長上で、その時、その場所で、目に見えない形でサポートできるようにすること」が一つの解となろう。これはモノを情報化すること、つまり、生活圏の環境全てにある仕組みを埋め込んで、環境そのものの情報化を図ることである。「人間の生活圏を情報化」するとは、形のあるあらゆる製品(例:衣類、家具、炊事道具、電化製品、車、運動具、文房具、遊具、農産物パッケージ、水産物パッケージ、家屋、ビル、道路等、但し、人間や生物は除く)にメモリ機能とセンサ機能を付加すると共に、生活圏のここかしこに、これらのメモリとセンサの情報を読出すためのモニタ機能を配備することである。
買い物やゴミ捨て等の消費、炊事や洗濯等の家事、高齢者や体に障害のある人への介助、育児や子供へのしつけ、歩行や車の運転等の移動のような「日常生活の中で、ちょっとサポートが必要な場合」の大部分は、その時にその場所でそこにあるものを使って、その場の状況の中で直ちに解決すべき問題である。必ずしもマルチメディア化されたユーザインタフェース、世界的規模のデータベース、世界的規模のネットワークは必要としない。重要なことは、実世界での普通の生活を中断することなく、その場の状況と必要なサポートの内容を生活圏そのものが理解して、その場にある情報と機器を使って、自分や人をサポートしてくれることである。
表
3.10-1に、人の情報化からモノの情報化へのパラダイムシフトを対比させて示す。
表3.10-1 人の情報化からモノの情報化へのパラダイムシフト
人の情報化パラダイム (人間活動の情報化) |
モノの情報化パラダイム (生活圏の情報化) |
|
サービス の形態 |
目に見えるサービス いつでも どこでも だれとでも どんな機器でも どんなメディアでも “ *-ever”“ mobile” |
目に見えないサービス この時に この場所で このモノと そこにある機器と (例:センサ・アクチュエータ) 限られた信号で “ Live-*”“ embedded” |
処理 |
メッセージ・命令の理解 (メタファ+ GUI) |
状況・状態の理解 (実世界での普通の生活) |
メモリ |
世界的規模のデータベース |
その場にある情報 |
接続 |
世界的規模のネットワーク |
その場限りで |
3.10.3 ライブシールLive Sealシステムの提案
モノの情報化パラダイム(生活圏の情報化)で必要となる情報技術を考察しよう。ライブシール
Live Sealシステムを提案し、その技術的可能性・技術課題・生活シーンへの貢献とインパクトを検討する。今日では、静電センサや磁気センサによって、商品コード
ID等を検出可能にするためのシールやタグが実用化されてきている。これらのシールやタグは、主として、商品の在庫管理や盗難防止に利用されている。ある程度の距離ならば、鞄や箱の中などに入れていても作動するので、非接触で操作できる点がバーコード等の画像型のシールやタグに比べて、用途が広い。このシールやタグが書換え・追記可能なメモリ機能とセンサ機能を持つと、どのような新しいサービスが可能になるだろうか?ライブシール
Live Sealは、静電誘導による読出し・書込み(あるいは追記)が可能なメモリ機能と、物理的あるいは化学的なセンサ機能を、薄膜・LSI技術で一体化したライブチップLive Chipを、製品に貼り付けられるようにシール状に加工したものである。センサ機能としては、温度、湿度、圧力、気流、振動、曲げ、微弱電流等の物理的なセンサや、
ph、ガス、汚れ等の化学的なセンサが考えられる。一つのライブチップの上に、必ずしも多種類のセンサが置かれる必要はない。メモリ機能としては、現在、
ICカードなどで利用されている静電誘導による読出し・書込み(あるいは追記)が可能なメモリを応用したものを想定している。製品コード、製造番号等の製品管理情報や、個々の製品の使い方、追加注文の仕方などのサービス情報の読出し専用情報の他、製品の使用履歴や消費者自身が書込むメモ情報、また、時々刻々のセンサの値も記録される(書込みあるいは追記)。これは、製品自身が、製品の取り扱い説明書や会社案内の他に、現在の製品の状態を情報として保持していることに相当する。ライブシールモニタは、ある距離に近づいた(ライブシールを貼った)モノに対して、静電誘導等の仕組みによりライブチップのメモリとセンサの情報を読出す。携帯端末にモニタ機能を用意すれば、携帯端末を近づけるだけで、ライブシールを貼った製品の種々の情報を読取ることが出来る。また、ある場所の近傍にモニタが複数個配置されていれば、その瞬間、個々の製品(あるいは製品群)が、概略どのような位置関係にあり、どのような状態になっているかを、その「場所」が理解できるようになる。同時にその「場所」は、人やモノが必要としているサポートの内容も理解できるようになるのである。
ライブシールモニタとライブシールのコネクションは、読出し等の距離が限定されるため「その場限り」で構成される。その場所、そのモノに近づいた時だけコネクションが構成され、通信が行われる。逆に、その場所、そのモノから離れれば、コネクションは切れて無関係になり、通信は行われない。
形のあるあらゆる製品(例:衣類、家具、炊事道具、電化製品、車、運動具、文房具、遊具、農産物パッケージ、水産物パッケージ、家屋、ビル、道路等)にライブシールを貼ると共に、生活圏のここかしこに、十分な数だけのライブシールモニタを配備すれば、(人間と生物以外の)モノと環境を情報化することができる。ここで得られる情報は、製品出荷時に与えられる固定的な情報ではなく、その時々のモノの状態、モノの位置関係、環浸透させるためには、製造コスト・生産数・経済性などの産業的な裏付けが必要となる。
現在の
ICカードのメモリチップ原価は、10円〜500円程度と言われている。我国ではICカードの普及はこれからであるが、欧州ではSmartcardの名称で、年間10億枚程度は生産されている。また、産業の米と呼ばれるDRAMは、実勢市場価格では数百円以下/1MBの程度で、一般家庭でも少なくとも数千個程度は直接・間接(種々の製品に組込みの形)に購入されていると考えられる。ライブシールの製造・販売に関する産業規模の予測には厳密な検討が必要であるが、概算でもDRAM相当以上の市場規模が想定できよう。
3.10.4 ライブシールLive Sealシステムの実現イメージ
― 2010年N子の一日 ―
ライブシールシステムを導入することで、我々の生活シーンや社会がどのように変化するかを、
2010年頃のある若い主婦の一日をストーリーボードとイラストで表現することを試みてみよう。ストーリーボードが設定する2010年は、ライブチップとライブシールシステムを実現するのに必要な要素技術が、ほぼ実用化される頃と想定している。
(1)主人公N子のプロフィール
N子は今年、35歳。大都市近郊のある地方都市の集合住宅に、同い年の夫と幼稚園に通う子供の3人家族で暮らしている。
育児が少し楽になってきたので、最近、在宅でコンテンツクリエータの仕事を始めた。週に1〜2回程度、車と鉄道を乗り継いで会社や街中のサテライトオフィスに出かけて打合せ。これが良い気分転換にもなっている。
学生時代は歴史を勉強していたが、現在は、通信教育プログラムで2つの大学のコースに参加している。一方のコースは、コンテンツクリエータに必要な知識や考え方、技能を学ぶため。もう一方のコースでは、歴史の勉強を今は趣味として続けている。仕事と同様に週に1〜2回程度、教授のオフィスに出向いて指導を受けている。
長男長女の夫婦で、幸いなことにそろって両親は健在なので、介護の負担も今のところはない。ただ、田舎に住んでいるちょっと体の弱ってきた祖父母と、最近スキーで骨折してリハビリ中の叔母のことが少々気掛かりである。
趣味は、歴史の勉強以外には、車の運転と料理。もちろんファッションにもそれなりの関心がある。夫の趣味はサッカーとサッカーの観戦。自分も最近、面白さがわかってきた。
料理やお菓子作りは楽しいと思うが、それ以外の家事は苦手。買い物は週に2回くらい、近くのスーパーやコンビニで済ませることが多い。
ごみ問題・地球環境やボランティアにも関心があるが、といって、積極的な活動家ではない。自分に出来る範囲でと考えている程度である。省エネにも関心があるが、地球環境というよりは、光熱費を節約したいから。街中で見かける子供のしつけが出来ていないのには、頭に来ている。とはいえ、よその子に自分から声を出して注意する勇気はない。
(2)朝の光景 一日の始まり
朝7時に起床。
快適な室温・湿度の保たれた部屋で目を覚ます。一昔前の家屋の流行は、高機密・高断熱による全室空調だった。今は、時々刻々変化する室内の気温・湿度・気流や、ベッド内の気温・湿度を、部屋自身がモニタして、大人・子供それぞれに最適な状態に調節してくれる。天井・壁・床やベッドの内外に何ヶ所も貼り付けた温度センサ・湿度センサ・気流センサ組込みのライブシールを、室内に取り付けたライブシールモニタが1分毎にチェックして、エアコンを制御しているらしい。快適な上に、無駄にエネルギーを使わないので、省エネにもなり、経済的にもお得なのがうれしい。
昔ながらのレトロな目覚まし時計にも味があるが、私は爽かな音で起こしてくれる目覚し枕を愛用している。人間の睡眠には波があって、爽かに目覚めるタイミングがあるのだそうだ。枕に貼り付けられたライブシールのセンサが、脳波中の覚醒波を感知しているという。
でも、どんなに室内が快適になっても、快適に目覚めても、やっぱり朝は忙しい。
子供に声をかけつつ、朝食の用意に取り掛かる。母が若い頃は、冷蔵庫から冷凍食品を見つけ出して、電子レンジで「チン」していた。寒い冬の朝には、エアコンと電子レンジのおかげでよくブレーカーが落ちたそうだ。今では昨夜の内に、冷蔵庫が栄養のバランスも計算して朝食のメニューを提案しておいてくれる。解凍すべきものは夜の間に解凍しておいてくれる。これは、冷凍食品のパッケージに貼り付けたライブシールを冷蔵庫がモニタしているおかげらしい。ライブシールには、食品の成分・栄養・賞味期限の情報の他、その食品の時々刻々の温度も記録されているので、きめ細かな食品管理や、家族の健康を考えたメニューの提案もしてくれるのだ。
家族と朝食をとりながら、今日の予定を話し合う。研究に没頭すると時間を忘れる夫だが、今日は早く帰ってくるという。私は、午前中に電子出版社と仕事の打合せを済ませて、午後からは大学、ついでに叔母の様子も見てこよう。
幼稚園バスのお迎えだ。幼稚園のかわいい先生に挨拶をしたい夫は、いつも子供と同時に出勤する。夫は自宅近くにある某研究所のサテライトオフィスに徒歩通勤しているのだ。笑顔で二人を送り出す。
(3)出勤途中の光景
朝食の後片付けをして、電子出版社との打合せのために、私も出かけることにしよう。家から最寄りの駅までは車で行くことにする。
白状するが、私はクルマをかっ飛ばすのが好きだ。今では全国に普及した交通システムITS (Intelligent Transportation System) は、道案内だけではなく、人間の不注意による事故防止に役立っている。自動運転も可能になりつつあるという。これは素晴らしいことだ。運転の下手な夫には便利だろう。しかしそれでも私は、やっぱり自分の腕でクルマを操作したい。
家の近くのスクールゾーンでは、ITS に言われなくったって私も徐行する。お楽しみは広い通りに出てからだ。さぁ、一気に(制限時速まで)加速。と、急に徐行モードに切り替わった。細い小道から、登校の児童が急に車道に飛び出してきたのだ!開発当初のITSは、車と車、車と道路の間の制御しかできなかったそうだが、今では、人間と車、人間と道路の間の関係にも配慮してくれている。ガードレールや歩道の縁石の下にはライブシールモニタが一定間隔で埋め込まれていて、車道に飛び出しそうな動きをしているライブシール(三輪車や自転車、衣服、靴などに貼り付けられている。当然、人間が乗っていたり着ていたりするわけだ)を関知すると、最寄を走っている車に信号を送って、自動的に徐行モードにしてくれるという。これなら夜間でも安心して車を運転できる。
それにしても無茶をする子供だ。昔だったら、町内の雷オヤジやオバサンが注意したんだろうけど、今では、叱ってくれる人もいなくなった。せめて、今のが危ない行為で迷惑行為であることを教えてやらなければ。子供の横を通りかかると、ガードレールが子供に注意・説教をしている!最近は、人から言われると、傷つきやすい子供が増えている。でも、ガードレールから注意されるんだったら、心理的なダメージも小さいのかな。「気をつけようね、ボク」とだけやさしく声をかけて通り過ぎる。こちらも小言を言うわけではないので、気が楽だ。
車を駅の駐車場に止めて、プラットホームに向かう。駐車場でも駅でも、チケットを買う必要もパスを取り出す必要もない。車に貼り付けたライブシールや、バッグの中にしまってある身分証に貼り付けたライブシールを、ゲートのライブシールモニタが感知して、乗った経路や駐車時間に見合った料金を、自動的に指定の銀行口座から引き落としてくれるのだ。
図3.10-1 子供を見守る目
子供の周りのモノや環境が、子供の身に起こりうる危険を感知。事故が起こる前に未然に危険を回避するためのサービスが、家事や社会生活をサポートしている。
私のように、パーク&ライド(Park and Ride)の場合は、両方の料金が割引になるのもうれしい。ライブシールが標準化されているおかげで、サービスも総合的に行われている。昔はクレジットカード会員には特別割引などのサービスがあったそうだが、今ではあらゆる商品に特別割引・特別優待などのサービスがあたりまえになってきた。電車の乗車マイルに合わせてスーパーでのお買い物が安くなるとか、仕事を持った主婦にはありがたい。
オフピーク通勤は定着しているはずなのに、やっぱり駅のホームは混んでいる。サテライトオフィスに向かう人達だろうか?結局、日本人は群れるのが好きなんだと思う。
子供連れのお母さんも結構見かける。小さな子供は興味のあるものを見つけると、我を忘れて駆け出すから、油断できない。ほら、あそこにお母さんの手を振り払って勝手に歩き出した子供がいる。お母さんは一瞬子供を見失ったが、ポケットから手帳サイズの携帯端末を取り出した。子供の場所をチェックするのだ。私も何度かお世話になった。母親の携帯端末は、自分の子供の着ている服、履いている靴に貼り付けてあるライブシールの識別番号を知っている。携帯端末は、駅のホームに一定間隔で埋め込まれたライブシールモニタと連動して、ライブシールがどこにあるか、ということは、自分の子供が駅のどこにいるかを調べられるのだ。この連動して探す仕組みは、その時だけのその場限りのリンクなので、個人の行動記録などのプライバシー情報は第三者には守られているという。
あ、危ない!あの子供がホームの乗降ドアの前にトコトコと歩いていった。もうすぐ電車が入ってくる!でも大丈夫。お母さんの携帯端末にアラートが鳴ると同時に、駅員さんも駆けつけて、やさしくアテンドしてくれる。駅員さんの携帯端末にも、誰か子供が乗降ドアの前に寄っている旨のアラートが鳴ったのだ。これもライブシールモニタが埋め込まれたホーム自身が、ホームの端でライブシールを感知して危険な状況を検出したために、保護者、駅員に状況を通報したのだ。このような仕組みは、いろいろな場所に用意されている。子供連れでも安心して歩けるようになった。もっともこの仕組み、夜には酔っ払ったお父さんを助ける役割も果たしているらしい。
さっきの子供、乗降ドアからやさしく注意されている。でもやっぱり、お母さんからの注意が一番身にしみるようだ。
最近は、かなりの数のホームに乗降ドアがつくようになって、線路への転落事故や人身事故は少なくなった。でも万が一の場合にも、ホームの端でライブシールを感知して危険な状況を検出、駅員や列車と列車の運転手に状況を通報するという。
(4)仕事の光景 サテライトオフィスや屋外での取材
私の仕事は、コンテンツクリエータ。ネットワーク上での電子的な出版物の執筆・取材・編集を行っている。内容としては、日本の伝統文化を様々な切り口から批評しつつ、外国に紹介している。この仕事は、在宅で家事や育児の合間にも出来るし、作り上げたという創造的な喜びがあるのがいい。クライアント(顧客)から喜んで貰えると(収入にも反映されるので)もっとうれしい。
仕事上、たまの出張は気分転換になるが、子供もいるのでそうは行けない。自宅や歩きながらでも使える小型のテレビ電話も広まってきているが、遠隔地の仕事仲間との込み入った打合せには物足りない。
今日はサテライトオフィスを借りての打ち合わせだ。このビルは、もとは銀行の支店だったそうだ。個人用のライブシールを貼り付けた身分証が普及したおかげで、ホームバンキングも珍しくなくなった。その結果、かつては銀行や保険会社の支店だったビルが、次々とサテライトオフィスに改築されてきているという。
サテライトオフィスで提供されている、部屋全体が遠隔地の会議スペースとリンクした会議スペース、つまり、仮想的な共同の仕事部屋となるメディアスペースを私達はよく利用する。遠隔地の仕事の仲間と、映像素材や取材テープ、デジタル化した仏像のデータや、試作したコンテンツなど、同じ資料を見聞きしながら、相手の反応も見ながら打合せができるのだ。特に会議にクライアント(顧客)が加わる時には、これは重要だ。
サテライトオフィスには、共同利用向けに様々な最新の情報機器が用意されている。これに自分の身分証を差し込むと、ライブシールで本人を確認して、自分専用の情報機器に早変わりする。ネットワークを経由して、自分専用に整理・用意した情報にもアクセスできるのだ。でも身分証を抜いてしまえば、リンクが切れて、他の人はアクセスできない。情報も暗号化されているとかで、著作権のからむデリケートな仕事をしている私としては安心だ。コンテンツ系の仕事は、常に最新の情報機器を駆使して、最高のクオリティを求められる。在宅で仕事をするとはいえ、自宅に常に最新の情報機器をそろえておくのは、家計を圧迫してしまう。結局、共同利用のオフィスをいかに自分流に使うかが、ポイントだと思う。
私は取材のために、カメラやカムコーダーを使うことも多い。最近は、著作権・肖像権が厳しくなっており、ちょっとした古寺や仏像、花器などの写真も勝手に使うわけにはいかない。昔は、権利の所有者を探しだして、コンタクトして、使用許諾を得るまでの交渉も大変だったと聞く。今では、古寺や仏像、花器などを撮ると、私のカメラやカムコーダーに内蔵の指向性のライブシールモニタが、これらに貼り付けられたライブシールを感知して、権利の所有者情報や利用の条件を自動的に読み出してくれる。さらに、手帳サイズの携帯端末を通じて、権利の所有者に、使用許諾の問い合わせを自動的に送ってくれる。この仕組みのおかげで、著作権・肖像権の無断利用は随分と減ったと聞く。
同時に、撮影した時の、場所、方角、時間、気温、状況も、周囲の被写体のライブシールから読み出して、記録してくれる。これは、私専用の取材データベースに移した後に、写真やビデオクリップを検索する時に利用している。
私の携帯端末やカメラやカムコーダーには、特殊なセンサがたくさん装備されているわけではない。周囲に配置されてあるライブシールやライブシールモニタとその場で交信することで、様々なセンサやデータベースを装備した高性能情報機器に生まれ変わるのだ。もっともその場を離れてしまうと、普通の携帯端末やカメラやカムコーダーにもどってしまうが。
この仕組みを利用すると、カメラやカムコーダーで撮像されるエリアに見える衣類に貼られたライブシールを手がかりに、誰が撮像されるかを感知して、事前あるいは事後に、その人(人達)に撮影のことを連絡してくれるそうだ。撮る側・撮られる側、双方のプライバシーを守りながらこれを実現するために、「信頼のおける公共の機関」の設置が話題になっている。これは、女性の立場からすると、強い味方になってくれるかもしれない。ハイテク武装した痴漢・ストーカーが自分を狙っていることをいち早く察知できるし、女性の下着用のライブシールのついた衣類(つまり下着)は撮影できなくなるだろう。
サテライトオフィスでの打合せを終えてランチに仲間と出かける。外食が多くなると、栄養のバランスや塩分の取り過ぎ、ダイエットが心配だ。さぁ、何を食べようか?手帳サイズの携帯端末を、カフェテリアのメニューサンプルに向けると、サンプルに貼り付けたライブシールの情報を読み取って、それぞれの料理の栄養・カロリー・調理法をチェックできる。どれが本日のお薦め料理か、また、カフェテリアの込み具合と料理の都合に従って、待ち時間も教えてくれる。私の携帯端末は、私が毎食どんなものを食べているか知っているので、栄養・カロリー・値段を総合的に判断して、アドバイスしてくれる。主体的に選んでいるのは自分だから、携帯端末からアドバイスを受けることには、あまり抵抗感はない。
そうだ、ついでにこのお薦めデザートのレシピも、携帯端末に戴いていこう。今週末に作ってみようかな?
(5)大学での学び方
通信教育プログラムで学んでいる大学の教授のオフィスを訪れる。
私は2つの大学に在籍していることになっている。一方のコースは、コンテンツクリエータに必要な知識や考え方、プレゼンテーションの技能や表現法を学ぶため。もう一方のコースでは、歴史の勉強を今は趣味として続けている。
知識の切り売りのような、一方通行的な授業は、すでにデータベース化されている。ネットワーク経由で、自宅で時間のあるときに受講(受信)すればいい。演習課題も自宅でこなして、電子メール等で提出する。
でも、考える訓練やアイデアを生み出す訓練は、マンツーマンでかつフェイスツーフェイスでないと無理だ。自習では、やっぱり身に付かない。
教授のオフィスにも、サテライトオフィスと同様に、様々な最新の情報機器が用意されている。これに自分の身分証を差し込むと、ライブシールで本人を確認して、自分専用の情報機器に早変わりする。ネットワークを経由して、自分専用に整理・用意した情報にもアクセスできるのだ。これで、自分がこなした課題や、自分専用のデータベースにアクセスしながら、教授のアドバイスを仰ぐ。これこそ教育を受けているという実感がする。
(6)高齢者のいる光景
大学で2時間みっちりと指導を受けた後は、叔母の家に様子を見に行く。
普段は活発な叔母なのだが、最近、スキーで骨折してしまって、ちょっと外出が億劫になっているらしい。ハイテク好きの叔母はバーチャルスキーゲームでの練習も欠かさない。だから、転び方もうまい。普通だったら複雑骨折でもおかしくないですよとお医者さんは言っていた。
叔母を車イスに乗せて外出する。近くの美術館で、新進作家の陶芸展があるのだ。
昔は、歩道のあらゆる角をスロープにして段差をなくすことがバリアフリーだと言われていたらしい。でもあれは、健常者には歩きにくいし、目の不自由な人にも歩道の端がわからないと、不評だった。今では、縁石の脇の段差の部分に埋め込まれたアクチュエータが、車イス用のライブシールを感知すると、つまり、車イスを感知すると、自動的に作動して車イスの通りやすいスロープを作ってくれる。これで歩道も、横断歩道も随分と通行しやすくなった。路上への迷惑駐輪などは随分少なくなったが、それでも目の不自由な人にとって、健常者が気のつかない障害物も多いと聞く。携帯端末が、歩道やガードレールのライブシールモニタと連動して、音声でアシストしてくれるんだそうだ。
こういう仕組みは、駅のホーム(ホームと列車のギャップなど)にも取り入れられて、お年寄や体の不自由な方達のスムーズな乗降や転落防止にも役立っている。
そういえば、田舎の祖父母はどうしているだろう?ここ2〜3日は、連絡をしていない。でも便りのないのは良い便り。
祖父母が身に付けている衣服や腕時計にはライブシールが貼り付けてあり、家屋内にたくさん配置されたライブシールモニタが、家屋内での移動や、体温、血圧、脈拍を、分単位でチェックしてくれている。もし何らかの異常があったら、すぐに最寄りのお医者さんに連絡が行くと同時に、私達の携帯端末にも連絡が入る仕組みだ。
以前は、ネットワークにつながった電気ポットが、一日に何回か使われることで、無事を確認するサービスもあったとか。あるいは、監視カメラを家のあちこちに何台も置いて24時間監視するという案もあったらしい。でも、ポットは、何時間おきかのモニタしかできなかった。監視カメラには、心理的な抵抗が強い。それにセキュリティ会社だって、たくさんの家庭を監視カメラで24時間見続けるわけには行かない。ライブシールとライブシールモニタは、祖父母に何らかの異常があった時だけ、病院やセキュリティ会社、親戚に連絡してくれるので、プライバシー上も気にならない。
私たちの家と同様に、祖父母の居場所に合わせて、エアコンや床暖房がきめ細かくコントロールされるので、省エネにもなるし、高齢者の健康上も安心だ。
散歩好きの祖父は、寒い冬でも散歩を欠かさない。だんだん横着になってきているようだけど、玄関ドアのあたりに設置されたライブシールモニタが、室内や体温と外気の温度の差を感知して、もう一枚、上着を羽織ったり、帽子をかぶるように勧めてくれる。
図3.10-2 高齢者・体に障害のある人を見守る目
高齢者・体に障害のある人が、特別に情報機器のリテラシを身に付ける必要はない。普段の生活を送るだけで、周りのモノや環境が、介助すべき事象を検知。重大な事態になる前に、直ちに介助のメカニズムを起動させる。
(7)美術館の光景 語りかけるオブジェを介したコミュニケーション
こんなことを話しているうちに、美術館に着いた。
叔母のお気に入りの新進作家の作品はどこだろう?実は私も仕事柄、陶芸には詳しくなってきた。電子出版で紹介できるような作品はあるかしら?携帯端末を取り出して、館内の案内図の前に立つ。すると、叔母や私のお気に入りの作家のどんな作品がどの部屋に展示されているのか、私の携帯端末にイラスト入りで表示される。これは案内図に貼り付けられたライブシールに書き込まれている今回の展示案内の情報から、叔母や私の好みを知っている携帯端末が選択的に情報をピックアップしてくれているのだそうだ。
美術館のそぞろ歩きも好きなのだが、今日は、早速その展示室に向かうことにする。
最近は多くの美術館が収蔵品をデジタルサンプリングして、ネットワーク上で公開している。自宅の情報機器でもそこそこの画質で鑑賞することができるのだが、やっぱり、私は展示室の雰囲気や光のあたり具合で微妙に色合いが変化して見える実物の空間が好きだ。
これはどういう作品なんだろう?携帯端末を近づける。作者のプロフィールはもとより、この作品のモーチベーション、作品のポイントなどのメッセージが、作者自身によって語られる。これも作品の内側に貼り付けられたライブシールに書き込まれた情報を、ピックアップしてくれているからだ。
おや、作品自身が、こういう鑑賞の仕方をした人もいるよと、この企画展示が始まってからの来訪者の主な見方、特徴的な見方も、紹介してくれている。もともとの作者の意図とは違った観賞法をとる人が結構多いのは面白い。作者がいて、作品があって、鑑賞者がいて。それぞれの関わり合いが、全体として作品の幅を広げているのかな。私の仕事の参考にもなる。
(8)夕方の光景 ショッピング
さぁ、そろそろ夕方だ。幼稚園は5時半までは預かってくれる。お買い物を済ませてから、迎えに行こう。
車で家の近くのいつものスーパーの駐車場に乗りつける。このスーパーの駐車場は少し狭い。運転のうまい私は、機械に頼ったりはしないが、運転の下手な夫は、枠内停止用のアラームのお世話になりっぱなしだ。これは駐車枠に設置したライブシールモニタが、車の4隅に取り付けたライブシールの位置を検出しながら、ITSと連動して、うまく駐車できるようにハンドルの切り方を誘導してくれるというものだ。
我が家では、お米などの定番ものは買い置きが無くなりそうになれば自動的に、指定のブランドが宅配されることになっている。だから今日は、1週間分の生鮮食料品や、日用品、衣料品などの買い足しをしよう。
今日のお買い得品とか、新製品の紹介とかは、ライブシールに記録されているので、それぞれのパッケージに携帯端末を近づけるだけで説明が得られる。私は、家族の健康のためには、できれば無農薬野菜にしたいと思っている。携帯端末を近づけると、この野菜を作っている農家の人からのメッセージや、おいしい料理法を見ることも出来る。作り手の熱意・努力が感じられる商品は、それだけでも身近に感じられて信頼できる。食品の場合、とくにこれが大事なんだ。
生鮮食料品や日用品のパッケージを自分のカートに入れる。すると、カートに組み込まれたライブシールモニタが、買い物の管理をしてくれる。同時にその情報は、私の携帯端末もチェックしていて、その日の買い物の合計金額、適切な料理のレシピなどまで紹介される。私の携帯端末は、私だけでなく家族の嗜好や最近の食事のメニューも知っている。これを総合的に判断して、(もちろん予算オーバーしないように)自宅の冷蔵庫や戸棚の買い置き情報とも合わせて、買い方のアドバイスもしてくれるのだ。
図3.10-3 ショッピングの「新しい姿」
商品を手に取ってカートに入れるという以外に、特殊な動作はなにもしていない。この当たり前の動作の背後で、自宅の在庫管理・購入アドバイス・家計管理や、電子商取引などのサービスが、生活をサポートしている。
あら、お隣の奥さん。世間話もしながらお買い物。今週末にみんなでお菓子を作ってちょっとしたティーパーティを開く話が盛り上がる。さっそく、今日のお昼に仕入れたお菓子のレシピを、私の携帯端末から、お隣の奥さんの携帯端末に転送してあげる。
お隣りの奥さんはリコーダーが趣味で、地元のサークルに入っているらしい。リコーダーの練習に参加してみないかと誘われた。実は、私もリコーダーにちょっと興味があったので、自分の身分証のライブシールに公開用の情報として登録しておいたのだ。そのメッセージを見つけてくれたらしい。一昔前なら、ネットワーク上の掲示版などにメッセージを公開しておくんだろうけど、誰に読まれるかもわからないので、私はプライベートなことにはあまり利用しない。自分の身分証のライブシールだったら、私の生活の範囲内で、顔見知りの人達の間で見て貰えるので、安心できる。
ハイテク化された街では、人間関係が希薄になるのかなと心配した時期もあった。しかし実際には、ハイテクが人間と人間との出会い・付合いを演出することになり、人間関係は豊かになったような気がする。
そうだ、子供用に新しい上着でも買ってあげようかな。
子供は成長が早いから、買ったつもりでもすぐに衣服が小さくなる。といって、ご近所から戴いたお下がりばかり着せるのも気が引ける。我が家のタンスやクローゼットは、家族の誰がどんな服を持っているか、把握している。タンスやクローゼットに服を入れるだけで、衣服に貼り付けられたライブシールを検出して、新しい服かどうか、どの季節に向いた服かどうかまで、管理してくれるのだ。
子供が今着られる衣服のリストを携帯端末に呼び出しながら、それとコーディネイトしやすい衣服を探してみよう。
あ、お母さん(=私)用にも一着買ってしまおうかな?独身時代にはTPOに合わせた服を、衝動買いしていたが、結婚して、子供も出来るとそうはいかない。でも、既に持っている服とのコーディネイトアドバイスを受けながら、お洗濯のしやすさとかもチェックしながら買うのだから、これは衝動買いじゃないよね。もちろん店員さんもアドバイスしてくれるけど、彼女達は、私がどんな服を持っているかは知らないんだし。
必要なものをカートに入れたら、そのまま駐車場へ向かう。カートには何が入っているかは、既にスーパーにはわかっているので、レジの必要が無い。代金は自動的に指定の銀行口座から引き落とされる。
図3.10-4 消費生活の「新しい姿」
食品や日用品を冷蔵庫や戸棚にしまうだけ。不用品はダストシュートに捨てるだけ。この当たり前の動作の背後で、消費生活をサポートするための鮮度管理・在庫管理・商品発注・メニュー提案・ゴミ資源の分別回収・環境保護などのサービスが活躍している。
家に帰ったら、買い込んだ食料品などを冷蔵庫や戸棚にしまう。冷蔵庫や戸棚は、各パッケージのライブシールを感知して、自動的に買い置き情報の管理をしてくれる。しかも、生鮮食品の場合、ライブシールのセンサを利用して、冷蔵庫は各食品の鮮度・温度・水分も時々刻々きめ細かくモニタしているのだ。だから、味が落ちないうちに賞味できるように、いろいろとお料理メニューのアドバイスをしてくれる。共働き家庭では、冷蔵庫や戸棚の食品を無駄にすることも多かったが、すっかり、無駄をしないようになった。
(9)団らんの光景
子供を幼稚園に迎えに行く。やんちゃで決してじっとはしていない幼稚園の子供たちをお世話して下さる先生方には、頭が下がる。
その日の子供の様子をじっくりと伺いたいのだが、私も先生も夕食の支度があるからそうもいかない。おおよそのお話を伺った後は、家に帰ってから子供に持たせたライブシールを貼り付けたカードを読み出す。幼稚園の遊具を使うと自動的に記録が書き込まれるのだ。もちろん先生も、気がついたことを電子的にライブシールにメモしておいてくれる。その日、どんな遊びをしたのか、どんなに良い子だったのかを見て、褒めてあげる。ライブシールのカードは、いわば、子供の成長を記したカルテだ。
さぁ、夕飯は何にしようかな?インスタント食品も便利だけれど、やっぱり手作りの料理が第一だと思う。実は、お料理やお菓子作りも趣味なのだ。我が家の冷蔵庫が、在庫の食品から適切なメニューを提案してくれる。また、ネットワークから、家族の好みに合うような新しいレシピなども取り寄せておいてくれる。今日は夫の帰りが早いというから、夫の好きなメニューをメインにしてみようかな。
レシピを見ながら、自分で適当にアレンジも加えながら、お料理開始。今では、調理台や調理器具にもライブシールとセンサがついている。だから、子供の世話に気をとられて、吹きこぼれや焦がすなんていうことは無くなった。
子供、子供と、あ、子供は今、何をしているんだろう?遊びたい盛りだから仕方がないが、最近は、勝手に家を抜け出して公園に行こうとする。もう暗くなってきているのに。先程、戸締まり設定にしたのを思い出した。子供が玄関のドアや家の門に近づくと、子供の靴や衣服のライブシールを感知して、玄関や門に自動的にロックがかかるのだ。ちょっと安心して、再びお料理に取り掛かる。あ、夫も帰ってきた。
一家三人の夕食。時間に追われていた頃は、心に余裕がなくて自分の気に入らないことにはイライラとしていた。でも、今は、心もゆったりとして、家族の話が弾むようになった。幼稚園での出来事を記したライブシールのカードを夫婦一緒に見ながら、子供に話しかける。
図3.10-5 衣類の管理の「新しい姿」
衣類をクローゼットから取出し、また、洗濯物は洗濯機に投げ入れる。クローゼットや洗濯機自身が「電子の目」を持ち衣類を管理している。
食後。
家事は完全に分担という、結婚の時の約束は全くのウソ。結局、家事(掃除・洗濯・育児)は、主婦の仕事になってしまう。夫がやってくれるのは、皿洗いくらいなもの。これだって、汚れセンサー付きの皿洗い器に、ライブシールを貼り付けたお皿を入れるだけなんだけど。
明日はゴミの収集日だ。生鮮食料品や使用済みの日用品などのパッケージの包みを、無造作にダストシュートに放り込む。ダストシュートは、自動的にパッケージのライブシールを読み取って、その種類(従ってゴミの種類)を判断。燃えるゴミ、難燃物、不燃物、色ガラス等を分別して回収してくれる。これでゴミを無駄なく再資源化できるようになった。燃やすしかないゴミそのものを減量することも大事だが、資源ゴミを有効に回収してリサイクルに回すことも大事だと思う。この仕組みのおかげで、街は数十種類の分別回収を行っているんだそうだ。大ざっぱな性格の私でも、これなら十分にやっていける。さらに資源再利用のコストが改善されれば、数百種類の分別回収を行う計画もあると聞いた。
実はうっかり、ゴミの収集日じゃない時に捨てようとすることがある。こんな時、こっそりとだけどアラームがなるのは恥ずかしい。自分たちの世代は、親からしつけをあまり受けずに育った。こんな所からでもしつけ直されれば、自分たちも、子供たちに良いしつけを出来るだろう。
今日は、ワールドカップの試合がケーブルテレビで中継される。たいていの見たい番組は、放送センターのデータベースに収められており、見たい時に家庭に送られるようにはなってきた。しかしやっぱり、こんなビッグゲームは生中継で見たい。夫が早く帰ってきたのは、このためだったんだな。
昔は、一つの試合を十台くらいのカメラで放送していたらしい。今では、百台ものカメラが設置されて中継される。カメラマンの数が増えたわけではない。ライブシールは全選手の衣服や靴、ボールに貼り付けられている。グランドには等間隔にライブシールモニタが埋め込まれ、また、指向性の強いライブシールモニタによる自動追尾型のカメラが利用されるようになったのだ。もちろん、プロのカメラマン&ディレクターが、カメラを切り替えて送る放送も楽しめるが、各選手・ボールをさまざまな角度から自動的に追尾して送る映像にチャネルを合わせる人も多い。ひいきの選手を見続けたり、ゴールの瞬間を迫力満点の角度からリプレイして見たり。このおかげで、私もだんだんとサッカーの面白さがわかってきたように思う。
こういう番組作りは、いろんなスポーツだけではなく、音楽(コンサート、オペラ、歌番組)、バレエ・演劇にも利用されている。近々、国会や議会中継にも使われるらしい。
さぁ、試合も終わったし、子供をお風呂に入れて寝るとしよう。その日着ていたものを、洗濯機に放り込む。各衣服に貼り付けた、汚れセンサー付きのライブシールを見て、洗濯機自身が洗い方を調節してくれる。うっかり、ドライものと水洗いものを一緒にいれても大丈夫。適切な洗剤を組み合わせて、夜の間に洗っておいてくれるのだ。
パジャマに着替えてベッドに入る。もちろん、パジャマに貼り付けたライブシールの温度センサーがモニタされて、寝室内の温度・湿度を快適に保ってくれる。湯冷めの心配もない。今夜もぐっすりと眠ろう、オヤスミナサイ。
(*)ライブシール、ライブチップに関する諸アイデア、「
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