1.はじめに 過去において、日本の高度成長の大きな要因 として、通商産業省の産業政策を挙げる人が多 かった(注1)。しかしながら、昨今の不況、 「空洞化」問題の顕在化を背景に、今までと同 様の産業政策が通用しなくなってきているので はないかとの不安を感ずる人が増えている。そ れに伴い、日本の産業政策は本当に有効であっ たのか疑問を呈する論調が増えてきた。例え ば、Beason and Weinstein [1993]は、1955 年から1990年までの13業種の成長率と政策援助 の関係を調べた結果、それらには相関関係がな く、日本の官僚の取り組み姿勢は、picking winner ではなくて、picking loserであった としている。 一方、日米両国の政策当局は産業政策の中で 重要なパートを占める技術政策に傾注してい る。 クリントン政権のローラ・タイソン起用に見 られるように、米国政府はハイテク産業への積 極的なテコ入れを目指している。具体的には、 UScar (U.S. Council for Automotive Research)、USDC(U.S. Display Con- sortium) などの組織を設立するとともに、軍 民転換を積極的に推進するため、DARPA (Defence Advanced Research Projects Agency) をARPA(Advanced Research Projects Agency)に機構改革するなどし て、技術政策の一層の充実に努めている。 一方、日本では産業政策を逆輸入した米国の 成功等を背景に、早期に新たな技術政策を構築 しなければならないという焦燥感が出てきてい る。この焦燥感を払拭するため、民間が中心と なって、Dertouzos, Lester, Solow and The MIT Commission on Industrial Productivity [1989]の日本版を目標に、日 本の製造業の将来の在り方について分析・検討 した(注2)。また政府も産業構造審議会・産 業技術審議会の合同部会を開催し、産業競争力 の動向、技術と産業活動との関わりの変化等の 分析を通じて、産業社会における技術の役割等 を明らかにしつつ、フロンティア開拓型産業発 展に必要な基盤整備や社会システム構築を目指 した総合的な技術政策を提示した。 技術政策を総論のみで論じても具体的な課題 への打開策は見い出されない。まず、過去の個 別プロジェクトの技術政策の検証を行い、その 利点・欠点を明確にすることを通じて、新たな 技術政策を立案するのが妥当であると思われ る。そこで、本稿では、1995年3月にプロジェ クトが終了した第五世代コンピュータ・プロ ジェクトを事例として、プロジェクト遂行方法 の妥当性、成果等を検討し、今後の技術政策の 在り方に言及する。 第2節では、具体的に第五世代コンピュー タ・プロジェクトの経緯を整理し、第3節で は、第五世代コンピュータ・プロジェクトの組 織と運営方法をまとめる。第4節では、第五世 代コンピュータ・プロジェクトの研究成果の評 価をまとめる。さらに第5節では第2節から第 4節を踏まえ今後の技術政策の展望に言及する。 2.第五世代コンピュータ・プロジェクト の経緯(注3) (1) 契機 1970年代後半、通商産業省電子総合研究所 (ETL)では、渕一博音声認識・推論機構研 究室長(当時)を中心に今後どのような研究を すべきか欧米等の文献を収集しつつ議論してい - 110 - たが、その候補の中にProlog言語(注4)を ベースにした論理プログラミングの開発及び推 論に適する新しいコンピュータの開発があっ た。当時、通商産業省本省でも従来のノイマン 型(注5)のコンピュータでない第五世代コン ピュータ・プロジェクトと銘打った新たなコン ピュータ・プロジェクトを考えていた。両者は 意見交換した結果、1978年に通商産業省電子政 策課、電子総合研究所、企業、学者等からなる 勉強会を開催し、第五世代コンピュータが具体 的にどのような技術的特徴を持つべきか検討す ることになった。これが第五世代コンピュー タ・プロジェクトのきっかけである。 この構想に至った背景としては、これまでの コンピュータの処理能力はハードウェアの能力 によって制限されており、ソフトウェアによっ てその制限された部分を補わざるを得ないため ソフトウェアは次第に複雑となり、開発の生産 性が上がらなくなってきたことがある。つまり 既存のコンピュータ構造には、プログラミン グ・スタイルに種々の制約があること、プログ ラムの正しさを確かめやすい言語が欠如してい ること、既存のプログラムから新しいプログラ ムを作ることが困難であること、等の技術的な 問題があったのである。 また、通商産業省は上記以外に二つのことを 考えていた。一つは、国際貢献の一環として、 できる限り基礎研究の分野における研究開発を 政府が率先して行うべきであるという考えであ る。もう一つは超LSI技術研究組合のような 産業支援的な政策を行ってきた時代と異なり、 企業がある程度成長してきているなかで、今ま でのような補助金交付型の政策とは別の政策を 行うべきであるとする考えである。しかし、日 本のコンピュータ産業は順調に育ってきたとは いうものの、依然IBM追随型であり革新的な 技術開発は望むべくもなかったことも事実であ る。以上を背景に、通商産業省としては、単純 に日本の競争力を強化するような研究開発支援 ではなく、国際貢献の一環として世界に広く公 開できる新たなコンピュータのアーキテクチャ の創造を目指すべきと考えた。 ところが当時の日本のコンピュータ業界は、 IBM互換の時代が20数年は続くと考えていた ため、このようなプロジェクトに民間が参加す ることに当初消極的であった。また、通商産業 省が考えていたプロジェクトに参加しても意味 がないと考えている企業すらあった。米国で失 敗例のある(第五世代コンピュータ・プロジェ クトの一つの目標である)並列推論(注6)な どの研究は商業ベースに乗らないと考えてい た。当時の状況を率直にいえば、プロジェクト を開始する前の企業の取り組み姿勢は、消極的 であったというのが実態であろう。一方で、プ ロジェクトが一旦始まってしまえば、実態上自 分達に都合のよい内容に変えることができると 思っていた企業も存在した(注7)。 上記の背景のもと、1979年から3年間にわ たって日本情報処理開発協会(JIPDEC)に 調査研究委員会を設け、第五世代コンピュー タ・プロジェクトについて検討が始まった(図 1)。調査研究委員会(委員長 元岡達 東大 教授(当時))の中には三つの分科会が設けら れた。各分科会はアーキテクチャ研究分科会 (主査 相磯秀夫 慶応義塾大学教授)、基礎 理論研究分科会(主査 渕一博 電子総合研究 所パターン情報部長(当時))、社会環境条件研 究分科会(主査 唐津一 松下通信工業常務取 締役(当時))であった。 基礎理論研究分科会では、ノイマン型ではな い新たな並列コンピュータ・プロジェクトを指 向したが、各企業から1人ずつ参加している - 111 - 図1 第五世代コンピュータ調査研究委員会の構成 (出所) 新世代コンピュータ技術開発機構の資料による アーキテクチャ分科会では、その構想に対し、 もう少し現実的な従来型コンピュータ・アーキ テクチャの延長上にあるプロジェクトにすべき だとの意見が多かった。最終的には、通商産業 省及び基礎理論研究分科会のメンバーの本プロ ジェクトに対する熱意がアーキテクチャ分科会 にも伝わり、基礎理論研究分科会が考える方向 に意見は収斂していった。児西[1987]は、 「企業での研究開発プロジェクトの立案とは、 資源ネックのなかからそれをどのようにやりく りしてその企業の経営目標の達成に資する商品 の開発を行うかを決めることである。これに対 して第五世代コンピュータプロジェクトの企画 立案とは、まず何が本当に革新的であるか、何 が国家プロジェクトで行うに値する研究開発目 標かを考えることであり資源ネックというより 目標に関する知識のネックを議論によって突き 抜けようとする試みであった」とし、第五世代 コンピュータ・プロジェクトの企画立案の革新 性を指摘している。このような革新性は、委員 会の参加企業にとっては当初なかなか理解でき ないものであったのだろう。 一方、通商産業省の内部でも、多額の資金を 投入して全く方向違いのプロジェクトを行おう としているのではないかといった不安があった のは確かである。そこで、プロジェクトの価値 を客観的に評価する一つの方策として、1981年 10月に第1回国際会議を開催した。この会議は 資金の制約のため海外からは少数の学者しか招 聘できなかったが、国内はいうまでもなく海外 からも数多くの学者が自費で参加した。第五世 代コンピュータ・プロジェクトは、その計画の 革新性がそれらの人々により賞賛され(注 8)、国際会議は好評に終わり、通商産業省も 本プロジェクトに本腰を入れるようになったの が実状である。 方向性は正しくても、具体的なプロジェクト となると数々の問題点が山積している。ひとつ のエピソードとして、岡松壮三郎電子政策課長 (当時)はこのプロジェクトを俗称「星雲プロ ジェクト」と名付けた。すなわち、目標が星雲 内にあるのは確かであるが、実際、星雲の中に 入ってしまうとそこには一つの宇宙が存在して おり、どこに正しい目標があるのか分からなく なってしまうという意味で名付けられたもので ある。 プロジェクトが始まった当初は、企業側の対 応も鈍かった。しかし、1983年度に予算が大幅 - 112 -